初めに

こんにちは けいこです。
Webサイトにお越しいただきありがとうございます。
私は、43歳で子どもを産んだ、シングルマザー「定年までに、稼ぎきる!」
ブログです。
娘の小学校入学を前に、働き方を見直そうと思いブログを書き始めました。
定年まで、頑張って稼ぎたいと思います。
よろしくお願いいたします。
プロフィル

生年月日:1976年3月生まれ
出身地:神奈川県横浜市
家族:小学生の息子・年長の娘
趣味:ネットショッピング・音楽鑑賞・ネット鑑賞
好きな食べ物:甘いもの全般
生い立ち(人見知りの幼少期~高校生)

私は、神奈川県横浜市で生まれました。
父は、食品工場勤務で、朝早くから、夜遅くまで働いていました。
母は、私から見たら厳しい人で、いつも小言が多く怒っているまじめな人でした。
子どもを産んだ今だから感じる事ですが、当時は家事・育児・パートに追われ
余裕がなかったのかもしれません(笑)
幼少期の母親の大変さがわかった、今だからこそ
在宅ワークで働いていこうと思いました。
小学校・中学校は、人見知りもひどく、積極的に行動するのも苦手でした。
また、家が裕福ではなく、お小遣いももらえなかったこともあり高校生になり、
飲食店でのアルバイトを始めました。
頑張れば”ほめてもらえる”うれしさと、頑張っただけお金をもらえる事から、
働くこと収入が得られることに、楽しさと喜び・達成感を学びました。
就職(販売業・接客業など、いろいろ経験)

高校を卒業後、食品加工会社に就職しました。
販売の仕事をしていたのですが寒い場所が苦手だったこともあり、半年ほどで退社。
その後は、新しい仕事を学ぶ楽しさ・やりがいなどを求め接客の仕事・販売の仕事・
部品工場の流れ作業など様々な職種で働きました。
中でも一番楽しかった仕事は、居酒屋さんで接客をしていたことです。
40席ぐらいの名の知れた、フランチャイズのお店で接客のアルバイトをしました。
常連のお客様が多く「ごちそうさま」と笑顔で帰っていくのを「ありがとうございました。」とお見送りすると今日も頑張ったと達成感を感じていました。
30歳を前に、体を動かす立ちっぱなしの仕事から、PCを使っての事務作業に転職
しました。このころは、景気が悪くなかなか仕事が見つからず、
「派遣会社」に登録して、物流倉庫の事務員として、20年働いています。
結婚・出産(まさかの入院)

30歳を過ぎ、周りの知人・友人が結婚していくなか、身近な友達が30歳を超えると徐々に
結婚していく焦りを感じながら、知人の紹介で、36歳で結婚しました。
晩婚だったこともあり、第一子の息子の出産が39歳、
生後8カ月目に高熱がでて小児科を受診したところ
”川崎病”と診断され、点滴治療を受けながら、2週間ほど、入院しました。
初めは、高熱が数日続き、湿疹がでて小児科に通っても改善が見られず、
こんなことあるの?いつまで熱が下がらないのと思っていると、
先生から明日の朝もう一度、受診してほしいと言われました。
「なんでですかと聞いたところ、大きな病気の可能性があるから
紹介状を書くかもしれない」と言われ、翌日慌てて朝から病院に行きました。
先生から告げられたのは、高熱が続き、発心がでて、一週間ぐらいすると目が赤くなるこれは、”川崎病”の症状の可能性が高いと言われ紹介状を頂いて「近所の大きな病院」を受診しました。
私は、初めて聞いた病名だったのですが、病院の先生からの説明は
「”川崎病”の発症の原因は不明だか、近年患者さんが増えています。
発熱・湿疹・口や舌の湿疹・目が赤くなるなど、徐々に症状が増えますが、
点滴治療と経過観察で大体よくなります」と説明して頂きました。
大学病院の先生の話を聞いて、少し安心したのを覚えています。
その後数年して、第二子の娘の出産が43歳の高齢出産になってしまいました。
下の子は、難産で出産前は、妊娠6カ月ごろの妊婦健診の際、
先生から「胎児がエコーに移らない」と言われよく確認して頂いたところ、
胎児が下がってきているから、「絶対安静の緊急入院です」と言われました。
なんで?また?と思いながら先生に言われるまま、子どもが小さく生まれても出産可能な
病院に救急車で輸送され、そのまま入院しました。
その後、胎児が生まれてこないように子宮の出口を縛る手術をして頂き、
入退院・自宅療養を繰り返し、少し早い36週で出産しました。
途中で成長が遅かった事もあり、生まれた時の体重が「1499g」と”超低体重児”で生まれました。出産後すぐ、”NICU”という小さく生まれた子ども・いろいろな事情がある子どもなどがいる部屋に、3カ月ほど入院していました。
産後は、毎日「母乳をもって」子どもに会いに行きました。
しかし、自分の子どもながら、体が小さすぎて抱っこするのも怖かった事を覚えています。手を握ってくれるのに、小さすぎて少し怖かっのが印象的でした。
数カ月すると、体重が3000gになり、病院から退院し、家に帰りやっと上の子に妹を
合わせてあげることができました。
コロナ化だったこともあり、面会が制限されていたからです。
突然、旦那さんの体調不良(他界)

また、下の子が生まれてすこしして、旦那さんの体調不良が発覚しました。
初めのうちは、胃痛を訴えて市販の胃薬を飲んでいたのですが、数カ月経っても、
症状が変わらず祖母の進めもあり近所の病院を、受信しました。
1件目の病院では「胃炎」と診断され胃薬を処方していただいたのですが、
病気が治りそうな感じもなく痛みばかり続きました。
そこで2件目の病院で血液検査をしたところ
「肝臓の数値が悪いので、レントゲンを撮るため、予約して受信してください。」
と言われました。
その後、紹介状を書きますから、近いうちに「大きな病院を受診してください」
と言われました。
この頃、育休も終わり毎日の家事・育児に追われてはいたものの、夜になると
この先の不安を考え、みんなが寝静まってから、今の幸せがいつまでも続かない
不安な気持ちが抑えきれずに、涙が止まらなかったのを覚えています。
それから大きな病院を受診し、何度も検査した結果
「すい臓がんステージ4」と診断されました。
がんは、一つの臓器からの発症なら、ステージ1~順に進行状態によって診断されますが、がんが多臓器にわたると、すぐに、「ステージ4」と診断されるそうです。
今回の場合、保険適用の標準治療が「抗がん剤」、しかも”すい臓”に対応する抗がん剤は、2種類の薬が主流でとてもつらく、苦しい治療です。
えっ?なんでと思いながら、先生の勧めで抗がん剤治療がスタートしました。
抗がん剤の治療から、数カ月経過したころ、名古屋に「すい臓がんを切る有名な名医」
の番組がNHKの特集でテレビ放送を見た、親戚の叔父さんからの情報を基に、
「セカンドオピニオン」を受ける事になりました。
しかし、セカンドオピニオンの予約は、3カ月先で、そのころには、2種類目の抗がん剤の副作用から、内臓に異変があり、腹水もたまり始めたころだったのですが、
担当医の先生にお願いして、画像診断という形で「セカンドオピニオン」を
旦那さんの代わりに受診しました。
名古屋の病院の先生は、せっかく来てくれたからと、今までの病気の状態を丁寧に説明して下さいました。
「すい臓がんは、痛みがでるまで本人は気が付かず、気が付いた時にはすでに遅く早くて
2.3カ月持つか持たないかなんだよ。発見してから、辛い抗がん剤の治療、一年近く頑張って延命している、これはすごいことなんだよ」と教えて頂きました。
数回の入退院を繰り返し、心が折れそうだった旦那さんに息子の写真を見せてあげたら、
すごく喜んでいました。かなり励みになったと言ってました。
その後、旦那さんはすい臓がんの痛みに耐えきれず、先生にお願いして痛み止めの薬を徐々に増やしてもらい、永眠してしまいました。永年55歳です。
亡くなる前、最後の日に息子の写真をみて、「大きくなったね」と言ってくれてうれしかったのと同時に寂しかったのを覚えています。
いつまでも一緒だと思っていたのに、なんでなんでと思いました。
その後月日がたつのは早く、日々の生活に追われ早くも3年が経過します。
現在、上の子は元気な小学生、小さく生まれた下の子は5歳です。下の子は、いまのところ体が小さいのと視力が弱い可能性があると言われていますが、二人とも元気に育ってくれることを願っています。
現在(小1の壁に差し掛かり)

今は、時短勤務で倉庫の事務作業の仕事をしています。
上の子の時は、旦那さんのおばあちゃんが元気だったこともあり、
一度目の”小1の壁”は、おばあちゃんの協力の元なんとか工夫して
のり越えたのですが・・・
下の子の時は、祖母の体調不良とも重なり、
「下の子の面倒は、見れない」とハッキリ断られていました。
そして、来年下の子が小学校に入学する前に、働き方を変えようと思い
「在宅ワークで 定年まで稼ぎきることを」達成するまでの道のりをブログにしようと思います。
小学校に上がると、保育園とは違い、初めの数週間は、ほどんど午前中で帰宅します。
夏休みなど長期休みも多く、近年では、インフルエンザ等で学級閉鎖などもあります。
家から小学校までの道のりも遠いため、学童保育をフル活用してまでの働き方が考えられなかったからです。
在宅ワークをはじめようと思ったきっかけ

コロナ化だったこともあり、働き方がいろいろ見直されている中、転職しようとwebサイトを検索していたところ「在宅ワーク」でも収入が得られることを発見しました。
そんな事ができるなんてすごい、やってみたいと思いました。
そこで、在宅ワークでも収入が得られるように、専門のスクールで
2024年夏頃から、オンラインスクールで学んでいます。
最後に

このブログを、通して40代からでも、定年まで
「在宅ワークで 月30万円」稼ぐことができる
まだまだ人はチャレンジすればできることを、お伝えできればと思います。
あたたかく見守って頂けると幸いです。
最後までお読みいただきありがとうございます。